みなさん、こんにちは!秋晴れの連休中日、高野山も参詣者が多かったです!
さて今回は9月8日の開始から紆余曲折を経て、漸く最終回の「壇上伽藍」の紹介です!
壇上伽藍とは金堂や根本大塔を中心とする高野山の信仰の根幹をなす場所です!
壇上伽藍中心部、
東側の堂塔、
木にまつわる伝説、
釣鐘の話など
何回に分けてお送りした来ましたが、すでに忘れてしまった、若しくは
「読んでないから知らん!」という方は、まあ読み直しておいてください・・・
最終回の今回は、壇上より一段下がった東側のお堂などを紹介していきます・・・
愛染堂(あいぜんどう)
建武元年(1334年)、後醍醐天皇の命により、玉体安穏(帝の身体健全)を祈るために
建立されました。本尊の愛染明王像は、後醍醐天皇の御等身大といわれています。
愛染明王は、本来であれば「煩悩」なる愛欲の心を、悟りを開くための力や
生きるパワーに昇華するご利益があるとして古くから信仰されています・・・
直江兼続が熱烈な信者で、兜に愛染明王の「愛」の飾りを付けていたのは有名ですね!
大会堂(だいえどう)
元々は鳥羽法皇の追福菩提のために皇女の五辻斎院内親王の命で
西行法師によって建立された「蓮華乗院」という名のお堂でした・・・
後世になり、高野山の大きな法要(大会)の集会所(しゅえしょ)として
使われようになってから「大会堂」と呼ばれるようになったそうです・・・
愛染堂と大会堂は嘉永元年(1848年)に再建されたお堂です
三昧堂(さんまいどう)
大会堂の隣の小さなお堂ですが、第8世高野山座主の済高僧正がこのお堂で
常に「理趣三昧」という修法を修していたことから、三昧堂と呼ばれています。
また別名を「西行堂」といいますが、先の大会堂建立に当たり、高野山に上った
西行法師が此処に住したことに由来するそうです、左側の木は桜の木ですが
西行法師が袈裟を掛けたことから「袈裟掛桜」或いは「西行桜」と呼ばれています。
またこの桜を愛でて「散る花の庵の上をふくならば、風入るまじくめぐりかこはん」
という和歌を詠まれたと伝えられています・・・ さてこうしたお話は一見、
著名な西行法師が出てくる伝説にも聞こえますが、実はこれは史実で
西行法師が大会堂の建立に際して、平清盛との交渉の状況を高野山に
伝えた手紙が高野山に現存していて、国宝に指定されているのです・・・
不動堂(ふどうどう)
建久8年(1197年)、鳥羽法皇の皇女八條女院内親王によって建立されました。
現在のお堂は14世紀前半ごろの建物で、火事が多かった高野山において
奇跡的に現存している古い建物で、仏堂でありながら当時の住宅様式を
よく伝えていることから国宝に指定されています。元来は別の目的で
建てられたお堂だったのでしょうが「不動堂」と呼ばれるようになったのは
後に不動明王と八大童子がおまつりされるようになったからだそうです・・・
ちなみにこの八大童子像は運慶の手になる名作で、数多くある高野山の
文化財の中でも至宝中の至宝として、霊宝館に展示されています!
いや、ここまで書いちゃって、こんなこと言うのもなんですが・・・
「壇上伽藍の紹介」は興味ない方にとってはつまんなかったんじゃないかと
ひそかに自省しています・・・でも最後まで書かないと気持ち悪いしネ!
次回からも「高野山探訪記」は続きますが、なるべく退屈はさせないように
一風変わったものを特集でお送りします・・・あんまり期待はしないように